天守餅
お城を楽しむ小ネタサイト
テーマネタ
テーマネタイメージ
アイコン

諦めるのはまだ早い! 兄がたくさんいても殿様になれた人物を紹介します


タイトルイメージ
bBear様撮影|写真AC

どうも! サイト管理人の犬彦です。

大名家にとって、血統の断絶を防ぐため、子供は多いに越したことがありません。ただし産まれる順番が遅い子ほど、後継者になれる確率が当然低くなり、その分冷遇を受けたりします。それでもノーチャンスではありません。今回は兄がたくさんいても、何だかんだで藩主になれた人物を紹介します。

※ 当記事には一部、小ネタと内容が重なるものがあります。

紀州藩五代・徳川吉宗(1684―1751)


タイトルイメージ
和歌山城

最も有名な末っ子殿様といえば、やはり暴れん坊将軍こと徳川吉宗でしょう。 二代・光貞の四男坊で、世に出ることなく一生を終えてもおかしくない立場でした。 13歳の時、時の将軍・徳川綱吉から越前葛野藩3万石を賜りますが、領国経営は家臣が行い、吉宗は紀州で気ままに暮らしていたようです。

転機は1705年、22歳の時。

長男・父・三男と次々に死亡。 次男もすでにこの世におらず、藩主の座が吉宗に転がり込んできました。 このあまりの急展開に、吉宗が兄達を謀殺したのでは、という噂が囁かれることに。

尾張藩七代・徳川宗春(1696―1764)


タイトルイメージ
名古屋城

徳川吉宗のライバルと見なされることが多く、享保の改革と相反する政治を行ったことで有名な徳川宗春。 父の三代・綱誠は計40人もの子供を授かっており、宗春は何と二十男でした。

しかし兄弟のほとんどが幼少で命を落としました。

また藩主となった者も、四代・吉通が25歳で死去、五代・五郎太(吉通の嗣子)が3歳で死去、六代・継友が39歳で死去と、長生きできませんでした。 継友が死因となる麻疹にかかった時、嗣子はおらず、残る弟もあと二名。 で、継友が後継者に選んだのが宗春でした。

熊本藩細川家六代・細川重賢(1721―1785)


タイトルイメージ
熊本城(眠鯨様撮影|写真AC)

「肥後の鳳凰」と呼ばれた名君・細川重賢は、細川家四代・宣紀の五男でした。 長男・次男・三男は幼少で死去し、四男・宗孝が五代目となります。 当時の熊本藩は極度の財政難で、部屋住みの身分だった重賢は質屋通いをするほど生活に困窮していました。

転機は1747年。 何と宗孝が江戸城内で斬殺されたのです。

この時点で跡継ぎは未定で、本来なら細川家は改易されるはずでした。 しかしたまたま斬殺現場に居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を効かせて、宗孝が重賢を養子にした後に死んだように偽装。 ギリギリで重賢の家督相続が認められました。

彦根藩十六代・井伊直弼(1815―1860)


タイトルイメージ
彦根城

安政の大獄や桜田門外の変で知られる幕末の大老・井伊直弼。 十四代・直中の十四男という藩主になる見込みのない立場でした。 兄弟の多くが他家の養子となったのに対し、直弼にはその機会にも恵まれず、17歳から32歳まで彦根城三の丸の屋敷で飼い殺しにされるという惨めな青春を送ります。

しかし十五代・直亮(直中の三男)の養嗣子・直元(直中の十一男)が38歳で病死したことで、次の藩主の座が転がり込んできました。 他家の養子とならず、ずっと彦根に残っていたことが、ある意味幸いしたのかもしれません。

アイコン
如何だったでしょうか。今日の境遇が悪くても、明日の境遇がどうなっているか、わからないものです。何事もネバーギブアップですね。

前のネタ 前のネタ
次のネタ 次のネタ