1623年、加藤家初代藩主・貞泰が後継ぎを決めないまま急死しますが、時の将軍・徳川家光は長男・泰興への家督相続を認めました。ただし大洲藩6万石の内、泰興が5万石を継ぎ、残り1万石は新谷藩を立藩して次男・直泰に分けるとしました。これが原因となって、藩内は6万石を維持したい泰興派と、1万石欲しい直泰派に分裂。この対立は揉めに揉めて、1639年まで続くことに。最終的に、泰興は格式的には6万石を維持、直泰の1万石は藩内での内分という形にして、直泰自身は大名して扱われる、ということで落ち着きました。
※ 読み:泰興⇒やすおき|新谷⇒にいや