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官職や身分、領地を取り上げることを改易と言います。殿様の乱心とか、家臣同士のいざこざとか、その理由は様々ですが、跡取りがいない、というのが江戸時代では一番多かったりします。今回は無嗣断絶により一代限りで改易となった、トホホな大名家と、それにまつわる逸話や伝説をご紹介します。
関ケ原の合戦以来、裏切者の代名詞となった小早川秀秋。 実は豊臣秀吉の正室の甥で、秀吉の後継者候補として大事にされていた時期がありました。 それが秀頼の誕生で一転、用無し扱いされ、毛利家の家臣・小早川家へ養子に出されることに。 そりゃあ豊臣家を裏切りたくもなりますよ。 関ケ原での裏切りで彼が得たものは、彼に裏切られた側の武将のひとり、宇喜多秀家の領地でした。 おそらく複雑な思いで領地入りしたでしょうが、子も作らずにたった2年で死去。 どうやら酒浸りだったようで、アルコールが原因と考えられています。
会津藩を領有していた蒲生家でしたが、跡取りがいないまま二代・忠郷が死去。 弟の忠知への家督相続が認められますが、1627年に伊予松山藩に転封となりました。 しかし忠知にも跡取りができませんでした。 その焦りからか、忠知は次第に精神を病んでゆき、自身の屋敷の前を妊婦が通るたびに捕まえて殺害し、さらにその腹を切り裂いて胎児を引きずり出すようになった、という話が伝わっています。 もっとも信用に足る話ではありませんが。 結局、松山入りから7年で忠知は死去、蒲生家は改易となりました。