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「板垣死すとも、自由は死せず!」でお馴染、板垣退助の戊辰戦争攻城記


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HiC様撮影|写真AC

どうも! サイト管理人の犬彦です。

板垣退助といえば、自由民権運動を主導した明治の大政治家というイメージが強いですが、幕末には倒幕志士として活動し、戊辰戦争(1868―1869)では討幕軍の指揮官として目覚ましいの活躍を見せました。今回は戊辰戦争で退助が関わったお城での攻防をご紹介します。

68年1月 高松城を無血で接収


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高松城

後に板垣姓を名乗る土佐藩士・乾退助は鳥羽・伏見の戦いをきっかけに、精鋭の迅衝隊を率いて土佐から出撃。 途中で高松藩と松山藩を討伐せよという勅命を受けますが、松山は別隊に任せて、自身は高松を選択。 あっさり恭順した丸亀・多度津両藩の兵を加えて進軍します。

さて当初は幕府側だった高松藩ですが、「朝敵」とされたことで混乱し、激論の末、戦わずに恭順することを決めます。 藩主・松平頼聡は高松城を離れて浄願寺で謹慎。城内に「降参」と記された白旗を掲げ、家臣は皆土下座して、討幕軍を迎えました。

68年3月 スピード命で甲府入城


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甲府城(民鯨様撮影|写真AC)

武田信玄配下の勇将・板垣信方を先祖に持つ退助は、武田家ゆかりの甲州に進軍する際、板垣に改姓します。

戦いの命運は甲府城を取れるかどうかで決まると考えた退助は、美濃大垣から急ぎに急いで甲府城に向かいます。 一方、近藤勇率いる幕府軍は、大垣よりも断然甲府に近い江戸から出撃しますが、豊富な軍資金で豪遊しながら緩慢な進軍を続けます。

結果、板垣率いる討幕軍の方が一日早く甲府城に到着し占拠。遅れてやってきた幕府軍を難なく蹴散らし、甲州勝沼の戦いと呼ばれるこの決戦を制しました。

68年8・9月 短期戦で会津若松城を制す


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会津若松城(眠鯨様撮影|写真AC)

板垣改姓の効果は抜群でした。 甲州勝沼の戦いに勝利すると、討幕軍に参加したいという甲州有志が多数集まり、彼らの力を加えてさらに東に進軍します。

幕府側の重要拠点で、難攻不落の呼び声高い会津若松城に迫ると、退助は短期決戦を挑みます。 会津若松城を包囲して猛烈な砲撃を加え続け、一か月に及ぶ大激戦を制しました。

さてこの戦いに臨むに当たって、会津藩は戦費捻出のためにプロイセンに蝦夷地を売却しようとしていました。 しかし交渉が成立する前に戦いが終了。退助の短期決戦策は、結果的に日本の国土を守ったことになりました。

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正直なところ、軍人として戦っている板垣退助のイメージが、今までの私にはまったくなかったので、調べてみて意外でしたね。皆さんはどうでしたでしょうか。

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