※ 読み:詮家⇒あきいえ
備前を治める宇喜多秀家は、領国の検地を行うことで自らへの権力集中と年貢などの収益の増加を図りました。
そうすると秀家配下の有力家臣達の権力や収益が低下するわけで、彼らの中から秀家に反発する者が現れました。
左京亮はというと、もちろん反発側です。
主君がいとこだろうと関係ありません。
秀家の強力な後盾となっていた豊臣秀吉が1598年に死去すると、その翌年、大坂城下の左京亮の屋敷に反秀家派の有力家臣達が結集。
武装蜂起の構えを見せ、特に秀家に重用されていた家臣・中村次郎兵衛の命を執拗に狙いました。
これがいわゆる「宇喜多騒動」で、秀家は自力でこの騒動を収めることができず、最終的に徳川家康の調停に頼ることになってしまいました。
これで秀家の権威が大きく失墜、家臣の多くが秀家の下を離れてゆきました。
左京亮はというと、騒動の流れのまま家康に付き従うようになり、関ケ原の合戦では東軍として秀家に刃を向けることに。
合戦後、宇喜多家との決別の意味も込めて坂崎姓を名乗るようになり、没落した秀家を尻目に、津和野3万石の領主に出世しました。
坂崎直盛の父・宇喜多忠家には二人の娘がいました。
姉の方は伊勢安濃津城主・富田信高の夫人となり、妹は日向懸城主・高橋元種に嫁いでいました。
1605年、直盛の甥の浮田左門が、直盛の家臣を殺して津和野から出奔するという事件が起こります。
直盛に寵愛されていた美少年が左門と浮気し、それに怒った直盛が家臣に命じて美少年を殺させ、それに怒った左門が家臣を殺した、という経緯が伝承として残っています。
もしこれが真実だとすれば、何とも呆れた話です。
左門はまず富田信高の夫人を頼って安濃津に逃げ込みます。
夫人の甥ということもあって信高は彼を匿います。
それを知った直盛は、左門を差し出せ、と信高に要求。
信高は「以前は確かにいたけど、今はもういない」ととぼけます。
これにブチ切れた直盛は何と信高と一戦交えようと、信高が出仕していた伏見に押しかけようとします。
これは未遂に終りますが、それでも諦めず、今後は徳川家康に訴え出て、さらには江戸に赴いて徳川秀忠にも訴え出ます。
しつこい……。
左門はというと、安濃津を離れた後、いろいろと逃げ回った末に、高橋元種の夫人を頼って日向に赴いていました。
夫人の甥ということもあって元種も彼を匿いますが、しばらくして直盛にバレてしまい、決定的な証拠まで掴まれてしまいます。
1613年、遂に幕府の沙汰が下り、直盛が勝訴しました。
左門は捕まり牢獄送りに。
そしてメンドイ男の姉妹を嫁にしたために、妙な争いに巻き込まれてしまった富田信高と高橋元種は共に改易。
特に信高は1608年に伊予宇和島に移っていましたが、5年ほどでその領地を失ってしまいました。
徳川秀忠の娘・千姫といえば、豊臣秀頼の元に嫁いだものの、大坂夏の陣(1615年)の時に火中の大坂城から救出された、というエピソードがよく知られています。
実は千姫を救出した者こそ、坂崎直盛だったのです。
しかしそれから間もなくして、直盛はこの大手柄を自ら台無しにするどころか、自らの破滅を招くコジラセを発動してしまいます。
千姫が桑名藩主・本多忠政のイケメン息子・忠刻と再婚することを阻止するために、何と千姫の誘拐を企てたのです。
しかし事前に計画が発覚し、幕府によって屋敷を包囲され、最後は使者の説得を受けて切腹したとも家臣に殺されたとも言われています。
なぜこのような行動を?
千姫救出に向かう際、千姫との結婚を家康に約束されていたにも関わらず、それを反故にされ憤慨したという説。
千姫に良い再婚相手を探してくれと家康から頼まれ、京の公家との縁談を進めていたにも関わらず、それを反故にされ憤慨したという説。
さて、どっちが正解か、もしくはどっちも不正解か。
とにかく、直盛の死によって坂崎家は断絶。津和野藩は鹿野藩から転封した亀井政矩に引き継がれました。