長きに渡ってロボットアニメの頂点に君臨し、子供だけでなく大人をも魅了し続けている『機動戦士ガンダム』。 そのブームが初めて押し寄せてきたのは、僕が小学生高学年の時だった。 特にガンダムのプラモデル、いわゆるガンプラの人気が凄まじく、ニュース番組でも取り上げられるほどだった。
そんな世間の熱狂を、僕は当初、冷めた目で眺めていた。 ロボットアニメからすでに卒業したつもりになっていたので、僕より年長の者がガンプラなどに夢中なっている様子が奇妙に思えたし、みっともないとさえ思っていた。
僕の中でプラモデルといえば、戦艦、戦車、戦闘機、スポーツカー、そして日本の名城と相場が決まっていた。 現実に存在しているもの、もしくは存在していたものを、どれだけリアルに縮小再現できるかにこそ、プラモデルの価値があると思っていた。 ガンプラ? 百パーセントフィクションのアニメキャラクターをプラモデルにしたところで、何の価値があるのか。
安易なブームに乗せられまいと、片意地張っていたところはあった。 ガンダムのアニメ放送を観ないように努めていた。 しかし当時はしつこいくらい頻繁に再放送されていたので、絶対に目に入れないというのは、かなり困難だった。 それにやはり、あれほどの大ブームにまったく関心を抱かないというのは無理があった。 何かの拍子で観てしまうのは、もはや必然だった。
はまってしまった。バカみたいに、はまってしまった。
もはや子供向けとは言えないくらい、リアルでヘビィーなロボット戦争の描写に、完全に魅了されてしまった。
そうなれば当然、ガンプラが欲しくて堪らなくなる。 カッコいいものにフィクションもリアルも関係あるか! と今までのプラモデル観をためらいなく投げ捨てた。
当時のガンプラ需要は、まるでオイルショック時のトイレットペーパーのようだった。 日本中の玩具屋で、入荷すれば即完売するという状態が続き、入荷日の開店前に列ができることも珍しくなかった。 学校を休んで玩具屋に並ぶことを許してくれるような甘い親に恵まれなかった僕が、ガンプラを手に入れる可能性はゼロに近かった。 無駄だとわかっていながら、ありえない奇跡を願って、入荷日でない日に度々玩具屋に行ってみるが、やはりあるわけがなかった。
しかし玩具屋に足を踏み入れていまえば、ガンプラでなくても何か買わなければ気が済まない、というのが子供心というものだ。 結果、本当に欲しかったのか自分でもわからないプラモデルが、自分の部屋に溜まってゆくことになった。 戦艦大和、和歌山城、F14トムキャット、ニッサンスカイライン、そして黄金の姫路城。
元々、本物の城と同じくらいプラモデルの城も好きだった。 ノーマルタイプの姫路城のプラモデルは、ガンプラブーム前から持っていた。 姫路城が二つあっても仕方ないし、しかも胡散臭い金ピカバージョンなど論外だ、と思いながらも、他に良いプラモデルが見当たらず、何でもいいからとにかく金を使いたいという稚拙な欲求を抑えられず、結局買ってしまった。
組み立ててみたら、これが案外良かった。 金ピカなのは屋根だけということもあり、華美になりすぎず、絶妙なゴージャス感を保っていた。 むしろ複雑な建物構造を持つ姫路城には、灰色屋根より金ピカ屋根の方が似合っている、と思えたくらいだった。 僕だけの特別な姫路城、という心地良い錯覚を十分に満喫することができた。
僕が念願のガンプラを手に入れたのは、ブームが治まった後だった。 ガンプラが玩具屋の棚に山積みになっているという、ブーム中ではありえない状況は、ちょっとショッキングだった。 世間の移り気を実感するのに、これ以上の光景はなかった。
当時のガンプラは未彩色で、別売りの塗料で色づけしなければならなかった。 塗料すべてを揃えるほどの小遣いはなく、かといって真っ白のままでは味気がないので、金色マーカーを買って、ガンプラを塗りたくった。 黄金の姫路城という成功例に倣ったわけだが、これが大失敗だった。 ガンダムに絶対不可欠の、未来感、テクノロジー感が完全に失われ、ただただ胡散臭いロボットになってしまった。 何でもゴールドにすればいいわけではない、という当たり前のことを、この時学んだのだった。