継嗣断絶により水野家が改易され、それからしばらく経った1710年、新たに阿部家が福山藩主となりました。ペリー来航時の老中首座で、日米和親条約を締結したことで有名な阿部正弘は、阿部家七代藩主に当たります。正弘だけでなく、幕末まで十代続いた阿部家藩主のほとんどが幕閣を務めており、ずっと江戸にいましたので、領国経営は国元の家臣に任せっきりでした。また江戸詰め家臣の生活費などの莫大な支出を負担させられていたのは領国で、故に福山藩は慢性的な赤字に苦しみ続け、百姓一揆も頻発しました。